メイン 門真市 江戸時代の後半 米国の黒舟が浦賀に来航 | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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rsbru | 投稿日時: 2006-8-17 21:46 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
江戸時代の後半 米国の黒舟が浦賀に来航 皆様 暫くご無沙汰して御免なさい、
此れからも呆けないように続けたく思いますので宜しくお願い致します。 1853年、嘉永(かえい)6年6月3日 浦賀(うらが)【横浜】の沖に入港した、 米国(アメリカ)の巨大な軍艦4隻の黒い鉄の船を見た人々は驚き。 また、幕府役人も対応に苦慮して浦賀の浜は戦場のような騒ぎとなったそうです。 軍艦サスクェハナ号に乗っていたペリ−艦長が、 浦賀奉行の役人に来航の説明をしたのです。 日本の沿岸でアメリカの船が難破(なんぱ)した際に、アメリカ船員の生命と財産を守る事と。 アメリカの船に水や食料をおぎなう為に日本の港を開くこと、 そうして、アメリカ船の積荷を買い、日本の品々を売るよう]に、 艦長は浦賀奉行に話したのです。 ところ、幕府から全権を任されていた井戸石見守(いどいしみのかみ)と戸田伊豆守(とだいずのかみ)は驚き顔色が青くなったなったそうです。 また、アメリカ大統領の親書(しんしょ)は長年鎖国を続けてきた、日本には受け入れられない要求が多かったのです。 当時、アメリカの漁船は日本の近海で鯨を捕獲していたので、 その漁船が嵐にあった時に逃げ込む港が欲しかったようですが。 幕府側は今まで鎖国を続けてきたので、 ペリ-艦長に返答が出来ず、引き伸ばし作戦に出たので。 ぺリ-艦長は来年再び来航するので、 その時まで返事を待つと云って帰って行ったのです。 長年鎖国を続けてきた幕府は外交政策に大変困り、 朝廷や諸大名に相談を持ちかけたのですが。 開国反対が多く、 特に開国絶対反対を言い続けてきたのは、 水戸藩主徳川斉昭(なりかき)でした。 幕府が思っていたいたよりも早く、 1854年(安政あんせい)1年1月16日に、 ペリ-艦長は今度は7隻の大きな軍艦を率いて江戸湾に入り、 錨(いかり)を下ろしたのです。 そうして交渉が纏まらない場合は江戸を攻撃する予定で、 江戸湾の測量をはしげめたそうです。 幕府の考えは、 軍艦から大きな大砲を打ち込まれたら防ぐことが出来ないし、 沿岸警備も満足に出来ず、費用がかさむので。 1854年(安政元年あんせいがんねん)3月3日、 幕府は日米和親条約(にちべいわいんじょうやく)に調印したのです。 条約内容は伊豆下田と北海道の箱館(現 函館)の二港を開き、 アメリカ船に必要な燃料、水と食料を与える事を決めたのです。 でも、幕府は貿易をおこなうことなは強く反対したのですが、 条約を結んだ時に、 アメリカから、電信機、汽車の模型、小銃、農機具などを、 政府は贈り物として貰ったのです。 日本からの贈り物は、 漆塗りの机、米、織物とその飾りもや、 そうして、江戸から力士を呼んで相撲をとらせた教えられました。 二百年以上も続けてきた鎖国もペリ-艦長の力でもろくも、 崩れてしまい。 後にイギリスやロシヤとも条約を結んだのです、 帰国したぺり-は病で63歳で亡くなったのです。 |
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