メイン 門真市 平家(へいけ)一族の祖 平将門(たいらのまさかど) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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kawati | 投稿日時: 2010-10-29 13:13 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
平家(へいけ)一族の祖 平将門(たいらのまさかど) 平将門(たいらのまさかど)
幼名・小次郎(こじろう) 生年不詳(せいねんふしょう) 下総(しもふさ)の国 {千葉県北部と茨城県の一部}で 940年3月25日・天慶(てんけい)3年2月25日 戦死 父は鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)平良持(たいらのよしもち)で、 始祖(しそ)、第50代 桓武(かんむ)天皇の孫(まご)の高望親王(たかもちしんのう)の第3皇子で。 祖父(そふ)、高望親王(たかもちしんのう)は天皇から桓武平氏(かんむへいし)の名を賜(たまわ)りましたが、 反乱(はんらん)を企(くわだて)てたため、 臣籍(じんせき)に下げられ上惣国(かずさのくに)千葉県に流罪(るざい)されたのです。 小次郎(こじろう)は元服(げんぷく)して名を将門(まさかど)と改(あらた)め、 京の都に上り、摂関(せっかん)藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕(つか)え。 都(みやこ)の悪漢(あっかん)退治(たいじ)で貢献(こうけん)したのですが出世(しゆっせい)出来ない為に悩んでいた時に、 の上総国(かずさのくに)で住んでいる父が死んだので。 上惣国(かずさのくに)へ戻り、 勢力(せいりょく)を養い、豊田、猿島(さしま)相馬(そうま)の3郡(茨城県)を支配していたのですが。 父が残した莫大(ばくだい)な遺領(いりょ)を横取りしょうと、 父の兄弟で、長男の国香(くにか)次男の良兼(よしかね)源譲(みなもとのまもる)等の連合軍(れんごうぐん)が攻(せ)めて来たのですが。 935年、国香(くにか)と源譲(みなもとゆずる)が将門(まさかど)の反撃(はんげき)殺されたのですが。 翌年、国香(くにか)の息子の貞盛(さだもり)と叔父(おじ)の良兼(よしかね)の大軍が再び攻めて来たのですが、 またしても将門(まさかど)の兵力(へいりょく)に押されて京に逃げ帰り。 貞盛(さだもり)は朝廷(ちょうてい)に訴え、 朝廷(ちょうてい)許可(きょか)貰(もら)って、貞盛(さだもり)は常陸国府(ひたちのこくふ)と連合(れんごう)したので怒った将門(まさかど)は国府(こくふ)を攻め落としたので。 朝廷(ちょうてい)えの反逆者(はんぎゃくしゃ)となりながら、 板東八(ばんどうはち)か国(こく){国府、岩井、相模、武蔵、上野、下野、常陸、安房}を攻め落とし。 将門(まさかど)は自分は桓武天皇(かんむてんのう)の子孫なので新皇(しんのう)と改めいたのですが。 940年、天皇(てんのう)命令(めいれい)受けた、 貞盛(さだもり)は藤原秀郷(ふじわらひでさと)の兵(へい)4000人を率(ひき)いて、 将門(まさかど)率いる農兵(のうへい)砦(とりで)を攻め込み。 将門(まさかど)は新皇(しんのう)を名のってから、わずか2ヶ月で攻め滅ぼされ、 後に、平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらひでさと)は朝廷に重くもちいられました。 |
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