メイン 門真市 足柄山(あしがらやま)の金太郎 後の坂田金時(さかたのきんとき) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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kawati | 投稿日時: 2010-11-4 22:50 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
足柄山(あしがらやま)の金太郎 後の坂田金時(さかたのきんとき) あしがらやまの きんたろう
くまにまたがり おうまのけいいこ はいしどうど はいどうど はいしどうど はいどうど 平安時代の中ごろ、 東国{神奈川県}の足柄山(あしがらやま)の山奥(やまおく)に地蔵堂(じぞうどう)と云う部落(ぶらく)がありました、 その部落(ぶらく)の一番の長者(ちょうじゃ)足柄兵太夫(あしがらのへいだゅう)という、 お金持ちが住んでいたのです。 その兵太夫(へいだゅう)さんに、 一人娘の八重桐(やえぎり)という娘さんがいましたが、 年頃(としごろ)になって隣村(となりむら)の豪農者(ごうのうしゃ)の坂田氏(さかたし)嫁(とつ)いで行ったのです。 でも、坂田氏(さかたし)では一族内(いちぞくない)の争(あらそ)いが多く、 八重桐(やえぎり)は一族の争いに巻き込まれるが怖(こわ)くて 生まれたばかりの金太郎を連(つ)れて実家に戻り。 金太郎と母の八重桐(やえぎり)の親子は地蔵堂(じぞうどう)で暮らすようになったのです、 そうして歳月(さいげつ)が流れて金太郎は20歳になったある日。 源氏(げんじ)の源経基(みなもとのつねもと)の孫(まご)の武蔵国鎮守府将軍(むさしのくにのちんじゅふしょうぐん)源瀬光(みなもとのよりみつ)が京の都(みやこ)に帰る道すがら足柄山(あしがらやま)を通っている途中に。 山深(やまふか)い中で、体格の良いたくましい盛年(せいねん)の働いている姿を見て、 瀬光(よりみつ)は、私の家来(けらい)になって京の都(みやこ)に来るよう話したのです。 金太郎は母の八重桐(やえぎり)に訳(わけ)を話したら、 母は気持ちよく了解(りょうかい)してくれたので金太郎は、 父の姓(せい)の坂田を名のり、坂田金時(さかたのきんとき)と 改(あらた)め、 瀬光(よりみつ)の供(とも)をして京に向かったのです。 瀬光(よりみつ)は、第67代 三条天皇(さんじょうたんのう)に仕(つか)えていたのです、 この頃、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子孫である、 藤原道長(ふじわらのみちなが)は娘を天皇の皇后(こうごう)と 妃(きさき)したのです、 そうして、生まれた子供が即位して後一条(ごいちじょう)天皇になったのですが。 天皇は生まれながらに眼の病気を持っていたので、 即位後(そくいご)5年で譲位(じょうい)したのです。 京の都では、坂田金時(さかたのきんとき)は大活躍をして源瀬光(みなもとのよりみつ)の四天王(してんおう)の一人として都(みやこ)の盗賊退治(とうぞくたいじ)や大江山(おおえやま)の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治したのですが。 しばらくして瀬光(よりみつ)は病で亡くなり、 金時(きんとき)は3か月間、墓前(ぼぜん)で寝起(ねお)きをしていたのですが、 その後、京の都(みやこ)では姿を見なくなりそうして誰も坂田金時(さかたのきんとき)の姿を足柄山(あしがらやま)でも見た人は無かったのです。、 |
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» 足柄山(あしがらやま)の金太郎 後の坂田金時(さかたのきんとき) | kawati | 2010-11-4 22:50 |
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