メイン 門真市 弥生時代後半 1 武内宿禰(たけのうちのすくね)と七人の息子 | 投稿するにはまずユーザ登録を |
フラット表示 | 前のトピック | 次のトピック |
投稿者 | スレッド |
---|---|
rsbru | 投稿日時: 2007-10-8 20:54 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
弥生時代後半 1 武内宿禰(たけのうちのすくね)と七人の息子 武内宿禰(たけのうちのすくね)
父は 第8代 孝元(こうげん)天皇の曾孫(ひまご)で屋主忍男 武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと) 母は 紀国造兔道彦(きのくにのみつやっこうじひこ)の娘で 影姫(かげひめ) 古事記では、 武内宿禰(たけのうちのすくね)には男7人女2人の子供がいたのです、 その子供たちは成人して名前が改められたのです。 長男・八代宿禰(やしろのすくね)は 波多氏(はたし)を、 次男・小柄宿禰(おがらのすくね)は 巨勢氏(こせし)を、 三男・石河宿禰(いしかわのすくね)は蘇我氏(そがし)を、 四男・都久宿禰(つくのすくね) は 平群氏(へぐりし)を、 五男・木角宿禰(きのちの)は 紀氏(きし)を、 六男・長江曽都昆古(ながえのそつびびこ)は本家の葛城氏(かつ らぎし)を、 七男・若子宿禰(わくごのすくね)は江野財(えのたから)を、 この7人の息子たちは。 難波(なにわ)と倭(やまと)を境とする生駒山、信貴山、葛城山そうして河内の金剛山に陣(じん)を持ち、 倭(やまと)の都では権勢を保ち続けつづけたのです。 長男の波多氏(はたし)と次男の巨勢氏(こせし)は倭国高市郡波多郷(やまとのくにたかいちぐんはたむら)現在の高取町付近に陣を構えていたのです。 そうして、第14代中哀(ちゅうあい)天皇は、朝鮮の新羅(しらぎ)は九州の熊襲(くまそう)が天皇に逆らっているのを知りながら熊襲(くまそう)に支援しているのを知り。 懐妊中の神功皇后(じんぐうこうごう)と波多氏(はたし)次男の巨勢(こせし)等と共に海を渡って戦いに向かったのですが。 中哀(ちゅうあい)天皇は突然の病で急死したのですが、 二人の兄弟は懐妊中の神功(じんぐう)皇后の共をして朝鮮に攻め込み新羅(しらぎ)百済(くだら)高句麗(こうくり)の三国を攻略して。 九州に戻った時に神功(ぢんぐう)皇后は誉田別命(ほんだわけめのみこと)後の17代応神(おうじん)天皇を産んだのです。 波多氏(はたし)の娘の黒姫(くろひめ)は17代履中(りちゅう)天皇の后(きさき)になり。 33代推古天皇の時に氏名を波多氏から羽田氏に改め副将軍となったがその後は衰退(すいたい)してしまったのです。 次男の巨勢氏(こせし)では三男の乎利宿禰(おりのすくね)孫の男人(おひと)は26代継体(けいたい)天皇の時に大臣(おおおみ)となり。 九州の筑紫国造磐井(つくしのくにやっこいわい)の乱で、 大伴金村(おおとものかねむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかひ)等とともに戦いにいったのです。 男人(おひと)の娘、 紗手姫(さてひめ)と香香有(かかりひめ)の二人は27代安閑(あんかん)天皇 の后(きさき)となり。 そうして男人(おひと)の孫の徳陀古(とこだこ)は大化の改新後の36代孝徳(こうとく)天皇の左大臣(さだいじん)となり、 徳陀古(とくだこ)の息子の黒磨(くろま)と邑治(むらじ)は中納言(ちゅうなごん)になったが。 その後は巨勢(こせし)も衰退(すいたい)していったのです。 |
フラット表示 | 前のトピック | 次のトピック |
題名 | 投稿者 | 日時 |
---|---|---|
» 弥生時代後半 1 武内宿禰(たけのうちのすくね)と七人の息子 | rsbru | 2007-10-8 20:54 |
投稿するにはまずユーザ登録を | |