メイン 門真市 平安時代中期の学者であり政治家・菅原道真(すがわらのみちざね) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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kawati | 投稿日時: 2008-10-29 21:58 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
平安時代中期の学者であり政治家・菅原道真(すがわらのみちざね) 菅原道真(すがわらのみちざね)
幼名・阿古(あこ) 始祖(しそ)は第12代景行(けいこう)天皇から第16代仁徳(にんとく)天皇に仕(つか)えた武内宿禰(たけしうちのすくね)の五男、木角宿禰(きのつののすくね)と教わりました。 父は、菅原是善(すがわらのこれよし) 母は、大伴氏(おおともし)の娘 道真の祖父(そふ)、清公(きよきみ)父の是善(これよし)は文章博士(ぶんしょはかせ)で道真(みちざね)も33歳の時に文書博士に任命(にんめい)され、 887年、第59代宇多(うだ)天皇に才能を認められ政治(せいじ)の仕事も任(まか)せられたのです。 そうして、弥生(やよい)時代の200年に卑弥呼(ひみこ)が中国に遣唐使(けんとうし)を送って以後、平安の中期(ちゅうき)まで続けていたのですが。 道真(みちざね)は天皇に中国に遣唐使(けんとうし)を送るのには莫大(ばくだい)な費用がかかるので廃止(はいし)するように求めたのです。 道真の長女、衍子(えんし)は宇多(うだ)天皇の妃(きさき)となつて2年後、 道真は右大臣(うだいじん)にそうしてもっとも権力のある藤原一族の中から藤原時平(ふじわらのときひら)が左大臣(さだいじん)となったのです。 宇多天皇は第一皇子を即位させて名を醍醐(だいご)天皇と改めさせたのです、 そうして、道真の二女が天皇の第三皇子(おうじ)の斎世親王(ときよししんのう)の妃(きさき)となったのです。 早い道真の出世(しゅせ)を妬(ねた)んでいた時平(ときひら)は常(つね)に道真を暗殺(あんさつ)する計画をしていたのです、 ある日、時平は醍醐(だいご)天皇に道真(みちざね)は天皇を退位(たいい)させて娘婿(むすめむこ)の斎世親王(ときよししんのう)を即位させようと企(たく)らんでいると話したのです。 怒った醍醐(だいご)天皇に道真(みちざね)九州の太宰府(だざいふ)へ左遷(させん)を命じられ、 道真は何時(いつ)か京の都に帰れると信じて庭の梅の木に。 東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな と話しかけて903年、無実を訴(うった)えながら太宰府へ流されてしばらくして病いに侵(おか)され、 京の都を偲(しの)びながら寂しく亡くなったのです。 909年、時平は急死(きゅうし)そうして醍醐(だいご)天皇の皇子も次々と亡くなり、 930年、御所(ごしょ)の清涼殿(せいりょてん)に落雷(らくらい)してその為に醍醐天皇も亡くなり。 京の都では道真(みちざね)の祟(たた)りとの噂(うわさ)で人々が騒ぎ、 祟りを鎮(しず)めようと北野天満宮に菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)ったと教わりました。 |
kawati | 投稿日時: 2010-10-22 22:08 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
Re: 平安時代中期の学者であり政治家・菅原道真(すがわらのみちざね) 暫く御無沙汰です、
三途の川原で道に迷い約一年ぶりに、 下界の河内に戻りました。 歴史人物の書き込みを続けたく思いますので、 宜しくお願い致します。 |
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