メイン 門真市 物部氏(もののべ)と曽我氏(そがし)の先祖 | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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rsbru | 投稿日時: 2004-12-31 21:52 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
物部氏(もののべ)と曽我氏(そがし)の先祖 物部氏(もののべし)の先祖は、
天照大神(あまてらすおおみか)の孫と云われています、 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)でその曾孫(ひまご)の 饒速日尊(にぎはやひのみこと)で神倭伊波礼混古命(かむやまといわれびこみこと)が、 倭(やまと)の豪族、長髄彦(ながすねひこ)と戦う、1年前ほどに倭国に入って、 長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は登美夜混売(とみやひめ)と結婚していたが、戦いの時は伊波混古命(いわれびこのみこと) と一諸に義兄の長髄彦(いわれびこ)を攻めたのであるそうして、 負けた長髄彦(ながすねひこ)に伊波礼混古命(いわれびこのみこと)後の神武天皇(じんむてんのう)の家来(けらい)なるように話したが 長髄彦は断ったので殺したといわれています。 先代旧事本紀では 十千根命(とおちねのみこと)が第11代 垂仁(すいこ)天皇に物部(もののべ)の氏名(うじな)を賜った、 そうして神を祀る最高者でもあった。 紀元498年 第25代 武列(ぶれつ)天皇が 物部麁鹿火(もののべのあらびか)の娘の影媛(かげひめ)に惚れられて結婚してから、 物部氏(もののべし)が大連(おおうなじ)の位につくようになり、 息子の物部尾興(もののべのおこし)が 朝鮮から贈られた仏像を祀る大臣(おおおみ)蘇我我稲目(そがのいねめ) との対立がはじまり、 尾興(おこし)息子の物部守屋(もののべのもりや)が、 587年に蘇我入鹿(そがのいるか)と甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ)後の聖徳太子(しょうとくたいし)の連合国と戦い、 (現在の八尾市渋川)で優勢に戦っていたが流れ矢に当たって戦死 しましたが、 その後、物部守屋(もののべのもりや)に仕えていたいた多くの家来や物部(もののべ)一族に関わる人々は奴隷(どれい)よりも酷い仕打ちを受けたそうです。 大化の改新で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)に殺された、 蘇我入鹿(そがのいるか)の先祖は、 第12代 景行(けいこう)天皇の曾孫である、 武内宿禰(たけのうちのすくね)の三男として生まれた、 河宿禰(いしかわのすくね)が曽我氏(そがし)と氏名になったのです。 そうして五代目の蘇我稲目(そがのいねめ)が535年、第28代 宣化(せんか)天皇の大臣(おおおみ)となる、 三人の娘の長女の堅塩媛(きたしひめ)と次女の小姉君(おあねのきみ)を第29代 欽明(きんめい)の天皇の妻に入れる。 堅塩媛(きたしひめ)は用明(ようめい天皇と推古(すいこ)天皇を産む、 小姉君(おあねのきみ)崇悛(すしゅん)天皇を産み、 三女の石寸名媛(いわきなひめ)を用明天皇の妻にして、 蘇我氏の勢力を不動のものする。 そうして蘇我馬子(そがのうまこ)、蝦夷(うみし)、入鹿(いるか)と続くが、 入鹿(いるか)は舒明(じょめい)天皇の息子の、 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)に 645年6月12日 飛鳥板蓋宮大極殿(あすかいたぶきみやだいごでん)で 殺害されて蘇我一族が滅びる。 中大兄皇子は後に即位して天智(てんち)天皇となります。 |
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