メイン 門真市 平家一門の祖 | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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rsbru | 投稿日時: 2005-1-16 13:26 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
平家一門の祖 平清盛(たいらのきよもり)の先祖は
第50代 桓武(かんむ)天皇の曾孫で高望王 (後の平高望たいらのたかもち)は上総国(かずさのく)の 国司として(現千葉県)行き、 息子の良持(よしもち)は陸奥国の将軍でした、将軍良持の長男として生まれた平将門(たいらのまさかど)は、 農地の開墾をすすめて、収穫を増やし農民や野武士達が集まってきたのです。 領地を増やした将門(まさかど)に、叔父の国香(くにか)吉兼(よしかね)源護(みなもとのまもる)が攻めて来たのですが、 国香と源護は将門に殺されたました935年です。 次の年に平吉兼(たいらのよしかね)は京の都に住んでいる国香の 息子、将門の従弟の平貞盛(たいらのさだもり)と、 大軍を率いて攻めてきたのですが、 平貞盛の軍は苦戦の末退却したのです。 将門は平貞盛を攻撃中に国府を攻め落としたのために、 朝廷も敵に廻して、 朝廷と貞盛の連合軍に平将門は滅ぼされて亡くなったのです。 940年没。 平貞盛(たいらのさだもり)から5代目の平忠盛(たいらのただもり)は1132年海賊平定の功績を鳥羽法皇に(とばほうおう 認められて朝廷への仲間入りしたのです。 平忠盛が病死したので、 長男の平清盛(たいらのきよもり)平氏武士団の棟梁なりました。 1155年 第76代 近衛(このえ)天皇の時代です、 父は 第74代 鳥羽(とば)天皇です、 平氏も源氏もともに朝廷に仕えてきたのですが、 74代 鳥羽天皇(後の鳥羽法皇)は息子であり崇徳天皇の弟の雅仁親王(まさひとしんのう)を即位させようと考えていたのでが、 崇徳(すとく)天皇(後の崇徳上皇)が自分の息子の重仁親王(しげひとしんのう)を即位させようとして、 天皇が分裂対決になり、 鳥羽法皇側に就いたのは藤原摂関家では藤原忠通と藤原信正、 平氏からは平清盛、源氏からは源義朝。 崇徳上皇子側は、藤原頼長(忠通の弟)平忠正(清盛の叔父) 源為義(義朝の父)が双方に分裂したのです。 この年に雅仁親王が即位して、第77白河(ごしらかわ)天皇となりますが翌年、鳥羽法皇が亡くなると対立が激しくなります。 高僧の信正(しんぜい)の指示で平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)が崇徳上皇(じょうこう)のいる、 白河殿(しらかわどの)夜討ちをかけたのですが、 名誉の先陣を信西は清盛に申しつけたので、 義朝は不満だったのです。 そうして朝廷からの恩賞も清盛のほうが多く、 源義朝(みなもとのよしとも)と天皇側近の藤原信頼は常に不満を持っていたのです。 1158年後白河天皇は上皇になった翌年に、 平清盛(たいらのきよもり)は熊野詣に向った留守中に、 藤原信頼と源義朝が、後白河上皇と御門(おくさん)を連れ出して、 藤原信西を宇治で殺したのです。 清盛は熊野詣の途中に事件を知り、 直ぐに京の六波羅の邸に戻り、上皇と御門を助けて、 そうして源氏が惨敗して源義朝と長男の義平が逃げたが、 追っ手に捕まり親子は殺されたのです。 源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆に流されて、 今若、乙若(おとわか)牛若、そうして母の常盤御前(ときわごぜん)は清盛の義母の 池禅尼(いけのぜに)に命を助けられたのです 平治の乱です、 日本歴史人物事典から引用です。 |
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