メイン 門真市 北条時宗とモンゴル帝国 | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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rsbru | 投稿日時: 2006-8-22 21:13 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
北条時宗とモンゴル帝国 北条時宗(ほうじょうときむね)
建長(けんちょう)3年5月15日(1251年6月5日)生まれ、 弘安(こうあん)7年4月4日(1284年4月20日) 没、 幼名 正寿丸(せいじゅうまる) 父は 鎌倉後期の武将時で時頼(ときより) 母は 北条重時(しげとき)の娘。 父、時頼(ときより)が37歳で病死したので息子の正寿丸(せんじゅうまる)が、14歳で家督を継いだのです。 それから2年後、1268年1月に九州の大宰府(だざいふ)に、 モンゴル帝国(ていこく)フビライ=ハンの命で高麗(こうらい)の使者が訪れ。 日本と貿易をしたい、もし断れば日本を攻撃すると書いた国書を持って来たのです。 フビライ=ハンは当時アジアからヨ−ロッパまでの大陸を征服(せいふく)してモンゴル帝国を創った人物と云われています。 私はフビライ=ハンは、ジンギス=ハンは源義経(みなもとのよしつね)の孫だと聞いたことがありました? フビライ=ハンは日本を征服して植民地にしようと考えていたそうです。 フビライ=ハンは2度も国交をせまって来たのですが、 北条時宗(ほうじょうときむね)は2度とも返事は送らなかったのです。 1271年9月 モンゴル帝国の使者、 趙良粥(しょうりょうひつ)が多数の兵を率いて九州の今津の沖で船を停泊させて日本の様子を伺っていたのです。 この頃、日蓮上人が幕府を批判したので佐渡島に流罪されたそうです。 フビライ=ハンは国名を元(げん)に変えて、 日本への攻撃の準備をしていたのです。 1274年10月 元(げん)高麗(こうらい)の連合軍の2万6千人の兵隊が対馬(つしま)と壱岐(いき)そうして博多湾に侵入して来たのです。 幕府も弓矢で立ち向かいますが、 相手は矢の先に毒を塗って雨が降るように、 船上から矢を放ったくるので幕府軍は大敗していたのです。 ある夜、九州に大暴風雨が来て敵の船は壊滅したのです、 これを、文永の役(ぶんえいのえき)といいます。 1275年 元(げん)の使者が日本国は降伏せよとの国書を持って来たので。 怒った時宗(ときむね)は、その使者の首を斬りおとすように家臣(かしん)に命じたのです。 1279年 元(げん)は再び14万人の兵力で日本を攻め滅ぼしに向かったのです。 今度は日本も警戒していたので、 互角に戦いそうして夜になると敵船に夜襲攻撃(やしゅうこうげき)をしていたのです。 そうしてまた、再び大暴風雨が来て海が大荒れになり敵の船を壊滅したのです、 この戦いは、弘安の役(こうあんのえき)といいます。 そうしてこの戦いは日本が勝ったのですが、 戦いで活躍した御家人から恩賞の催促(さいそく)を受けて、 北条時宗は大変困ったのです。 何時も戦いに勝てば相手の領地(りょうち))を奪い恩賞として貰うのが常なのですが。 今回は外国から攻めて来た相手なので、 獲るものが無かったのです。 時宗は1282年 戦死者の為に円覚寺(えんかくじ)を建て供養したのです。 そうしてその2年後、時宗は病で亡くなり34歳でした、 その10年後に、フビライ=ハンも亡くなったのです。 |
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