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     燃えさかる大阪城で切腹した豊臣秀頼
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投稿者 スレッド
rsbru
投稿日時: 2006-9-17 16:40
常連
登録日: 2004-10-29
居住地:
投稿: 96
燃えさかる大阪城で切腹した豊臣秀頼
父は 豊臣秀吉(とよとみひでし)
母は 織田信長の娘、茶茶(ちゃちゃ)後の淀殿(よどどの)

淀殿の父は、浅井長政で母は信長の妹のお市方(いちのかた)
織田信長(おだのぶなが)と浅井長政は同盟を結んでいたが。

二人の約束ごとの縺れから敵対関係なってしまい、
信長は浅井長政(あさいながまさ)の小谷城を攻め滅ぼしたのです。

浅井長政は妻のお市方(いちのかた)と三人の娘を信長のもとに返して、
炎に包まれた城内で長政は切腹して果てたのです。

兄の信長が亡くなると、
秀吉はお市方(いちのかた)に側室になるよう申し込んだのですが。

お市方(いちのかた)は断って柴田勝家(しばたかついえ)の後妻となったのです。

1573年(天正・てんしょよう)11年、織田信長の跡目を継ぐ(賤ガ岳・しずがだけ)の戦いで秀吉が勝利して、
柴田勝家とお市方(いちのかち)は自害したのです。

太閤となった豊臣秀吉は、お市方(いちのかた)の長女、茶々(ちやちゃ)後の淀殿を側室にして秀頼(ひでより)が生まれたのです。

次女の初子は京極高次(きょうごくたかつぐ)結婚して、
三女の於江(おごう)は徳川家康(とくがわいえやす)の長男、
秀忠(ひでただ)と結婚したのです。

でも豊臣秀吉は病で62歳亡くなると、
朝鮮から帰って来た加藤清正と福島正則とは、
ねたみから、石田三成を暗殺しようとして失敗して。

加藤清正と福島正則は徳川方の付いたのです、
そうして、関ヶ原で、西軍の石田三成との戦いで活躍したので。

家康からの褒美(ほうび)として肥後国(ひごのくに)45万石の大名となったのです、
福島正則は二代将軍徳川秀忠の叱りにふれて、
信州川中島4万5000石の大名に格下げになったのです。

関ヶ原の戦いで西軍が負けて、
豊臣秀頼(とよとみひでより)と徳川家康とは完全に逆転してしまったのです。

そうして家康(いえやす)は大阪城の外濠(そとぼり)中濠を埋めさせて内濠だけにしてしまったのです。

この頃、秀頼(ひでより)浪人集めをしているの知った、
家康(いえやす)は怒り。

秀頼に浪人集めをやめて浪人を直ぐに解散させるか、
または、大和郡山(やまとこうりやま)4万石に移り田舎大名になるか。

どちらかを選ぶよう通達がきたのです、
大阪城内では、秀頼(ひでより)淀殿(よどどの)と七人の重臣が協議した結果。

秀頼の正妻、千姫(二代将軍徳川秀忠の娘)に助命嘆願書を持たせて徳川方に使者として行かしたのですが。

千姫はとうとう大阪城には帰って来ませんでした、
その返事の替わりに。

4月25日、徳川軍15万5千人の兵が大阪城を包囲したのです、
そうして大阪夏の陣がはじまったのです。

後藤又兵衛は大和郡山城を攻め落として、
河内の道明寺で霧の深い真夜中2,500人兵を率いて。

ここで敵の先鋒隊を全滅させる為に、
真田幸村(さにだゆきら)との待ち合わせで待っているところへ。

250,000人の兵を率いた伊達政宗(だてまさむね)の軍に攻撃されて殺されたのです。

木村重成も河内の若江で藤堂高虎と激戦兵力が少ないために殺されたのです。

上町台では豊臣の兵力55,000人、
     徳川の兵力150,000人が、
最後の決戦となったのです。

真田幸村(さなだゆきむら)軍の3,000人兵は、
茶臼山(ちゃうすやま)で松平忠直の軍に猛攻撃をかけて、
戦ったのですが味方の戦力不足で力尽き、
手傷を負っている幸村は、
敵の越前兵(おちぜんべい)に槍で刺し殺されたのです。

燃えさかる大阪城内で万策尽きたことを覚った秀頼は自ら命(いのち)を絶つたのです23歳でした。

慶長(けいちょう)20年5月8日




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