メイン 門真市 武内宿禰(たけのうちのすくね)三男石河宿禰(蘇我氏の始祖) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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rsbru | 投稿日時: 2007-10-16 17:33 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
武内宿禰(たけのうちのすくね)三男石河宿禰(蘇我氏の始祖) 石河宿禰(いしかわのすくね)は成人して蘇我宿禰(そがのすくね)と名を改め、
本拠 倭国(やまとのくに)高市郡蘇我邑(そがむら) 家系は、石河宿禰(いしかわのすくね)〜満智宿禰(まちのすくね)〜韓子宿禰(からこのすくね)〜蘇我高麗(そがのこま)〜蘇我稲目(そがいなめ)で。 蘇我氏が権力の座に出たのは5代目の稲目(いなめ)からで、 一門の波多氏(はたし)、巨勢氏(こせし)、葛城氏(かつらぎし)が衰えた頃の。 535年 第29代欽明(きんめい)天皇が即位すると蘇我稲目(そがのいねめ)が大臣(おおおみ)の位に就き、 長女の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を天皇の后(きさき)に差出し。 堅塩媛(きたしひめ)は第31代用明(ようめい)天皇、第33代推古(すいこ)天皇を産み、 小姉君(おあねのきみ)は第32代崇峻(すしゅん)天皇を産んだので稲目(いなめ)は天皇の外戚となって。 天照大神(あまてらすおおみかみ)孫で初代天皇から仕えて来た物部氏(もののべし)や大伴氏(おおともし)をも凌ぎ権力を揮っていたのです。 551年、朝鮮の百済王(くだらおう)から仏像と経典を授かりその仏像を稲目は祀り信仰したのですが。 疫病(天然痘)大流行して多くの人々が死んだので、 大連(おおうなじ)の物部尾興(もののべのおこし)は、 仏像の祟りだと云って稲目が祀っている仏像を難波(なにわ)の横堀川に投げ捨てたのです、 それから暫くして蘇我稲目(そがのいなめ)も物部尾興(もののべもおこし)が亡くなったのですが。 後を継いだ息子たちの、 蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)代になるといっそう険悪の状態になり。 用明天皇が亡くなると、次の皇位(こうい)めぐって蘇我氏と物部氏の対立が激しくなり。 遂に、蘇我馬子(そがのうまこ)は甥の聖徳太子(しょうとくたいし)と連合して、 物部守屋(もののべのもりや)と河内国を中心にして大戦争が勃発しかのでが。 神話の時代から神を護り続けた物部一族(もののべいちぞく)が負けて滅んだのです。 蘇我氏は全国一の権力を持ったのですが、馬子(うまこ)亡くなって息子の蝦夷(えみし)と孫の入鹿(いるか)の親子は後を継いでいたのですが、 蘇我氏は物部一族の残党狩りを強行に行っていたのですが、 その厳しい残党狩りの網目を潜り抜けて生き延びていた。 中臣鎌足(なかとみのかまたり)と蘇我氏の血を引く中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に、 息子の入鹿(いるか)が殺されたのです、 自宅いた父の蝦夷(えみし)は息子の死を知ると。 自宅に火を放ち自害したのです、 そして武内宿禰(たけのうちのすくね)三男石河宿禰(いしかわのすくね)の子孫は滅んだのです。 |
kawati | 投稿日時: 2010-10-31 14:42 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
Re: 武内宿禰(たけのうちのすくね)三男石河宿禰(蘇我氏の始祖) 武内宿禰(たけのうちのすくね)
倭(やまと)朝廷の時代の第12代の景行(けいこう)天皇から第16代仁徳(にんとく)天皇まで。 5代の天皇に仕えた人物で、 武内宿禰(たけのうちのすくね)の画像が、 昭和2年5月12日(1927年に発行された貮百圓札(にひゃくえんさつ)として発行され。 日本が、太平洋戦争で敗れた翌年の昭和21年3月21日(1945年)廃止となりました。 |
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