メイン 門真市 蘇我(そが)一族を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
スレッド表示 | 新しいものから | 前のトピック | 次のトピック | 下へ |
投稿者 | スレッド |
---|---|
rsbru | 投稿日時: 2008-1-12 23:03 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
蘇我(そが)一族を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
後の第38代 天智(てんち)天皇 推古(すいこ)34年(626年)誕生 天智(てんち)10年(671年)46歳で没 京都 山科陵 父は 田村皇子 後の舒明(じょめい)天皇 母は 宝皇女(たからのひめみこ)後の皇極(こうぎょく)天皇 斉明(さいめい)天皇 皇后 蘇我氏(そがし)の娘倭姫王(やまとひめおう) 天皇よりも権力のある祖父の蘇我蝦夷(そがのえみし)と息子の入鹿(いるか)は舒明(じょめい)天皇が病で亡くなると、次に誰を即位させるか思案していたのですが。 娘の宝皇女を即位させて皇極(こうぎょく)天皇としたのです、 そうして機会を図って孫の古人大兄皇子(ふるびよのおおえのおおじ)を即位させる予定でしたが。 蘇我氏(そがし)親子を殺そうと機会を狙っている人物がいたのです。 その人物は、蘇我氏親子に殺された物部守屋(もののべのもりや)に仕えていた中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。 鎌足は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を仲間にしょうと以前から思っていたのですが、 でも一度も逢った事がなかったのですが。 法興寺(ほうこうじ)で、蹴鞠(けまり)の会に出ていた中大兄皇子と話し合うことができて、 親しくなり蘇我氏親子を殺す話を持ちかけたです。 中大兄皇子も蘇我入鹿(いるか)が聖徳太子(しょうとくたいし)の皇子、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を殺したのに大変な怒りを持っていたので。 二人は蘇我氏を殺す計画をはじめたのです、 6月12日 朝鮮の使者が飛鳥板蓋宮大極殿(あすかいたぶくのみやだいごくでん)に。 高句麗(こうくり)百済(くだら)新羅(しらぎ)の使者が訪れたので、 二人はこの機会を失っては往けないと思い実行したのです。 儀式の真っ最中、母の皇極(こうぎょく)天皇の目前で中大兄皇子は蘇我馬子(そがのうまこ)を肩から背中を斬り下ろし鎌足は槍を腹に突き刺したのです。 我が子、馬子(うまこ)の死をしった蝦夷(えみし)は館(やかた)に火を放ち自害したのですが。 その時、天皇記{天皇家の歴史}国記も焼けてしまったのです、 そうして、天皇の弟の軽皇子(かるのおうじ)が即位して孝徳(こうとく)天皇となり年号も大化(たいか)となったのです。 中大兄皇子は皇太子、藤原鎌足は内臣(うちつおみ)となり、 豪族たちに天皇えの忠誠を誓わせたのです。 中大兄皇子は、 古人大兄皇子(ふるびとのおおえのおうじ)謀反の罪で死罪にして、 孝徳天皇が亡くなると天皇の息子、有間皇子(ありまのおうじ)も謀反の罪で死罪にしたのです。 660年、唐(とう)新羅(しらぎ)の連合に攻撃された、 百済(くだら)が援軍を求めてきたので。 中大兄皇子は弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と共に、 大船団を率いて九州那津へ向かい。 663年、船団は朝鮮の白村江(はくすきのえ)で唐、新羅の連合軍と戦い大敗したのです。 668年、中大兄皇子は滋賀の大津で即位して天智(てんち)天皇となり、弟の大海人皇子を皇太子にしたのです。 669年、鎌足は天皇から藤原の姓をさづかったが病で亡くなり、 天皇は息子の大友皇子(おおとのもおうじ)に最高位の太政大臣(だいじゅうだいじん)の位を与えたので。 大海人皇子は皇太子を返上して吉野に身を隠したのです、 天智天皇は病で亡くなり。 大友皇子が即位して弘文(こうぶん)天皇となったのです。 |
kawati | 投稿日時: 2010-11-2 22:10 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
Re: 蘇我(そが)一族を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)後の天智(てんち)天皇は皇太子(こうたいし)である弟、大海人皇子(おおあまのおうじ)と娘の、鸕野賛良皇女(うののさららのひめみこ)と結婚させたのですが、天皇に大友皇子(おおとものおうじ)が誕生しますと。
可愛い我が子を即位(そくい)させようと思い、 実の弟、大海人皇子(おおあまのおうじ)の暗殺を企(くわだ)てていたのです、 大海人皇子(おおあまのおうじ)その計画を知り身の危険を感じ。 皇太子(こうたいし)位(くらい)を兄の天智(てんち)天皇に返上(へんじょう)して、 大海人皇子(おおあまのおうじ)は妻の鸕野賛良皇女(うののさららのひめみこ)と数少ない家来(けらい)をつれて。 倭(やまと)の吉野で隠れ住んだのです、 歳月(さいげつ)が過ぎて、 天智(てんち)天皇が病で亡くなると、 吉野に身を隠していた大海人皇子(おおあまのおうじ)と妻の鸕野賛良皇女(うののさららのひめみこ)は。 672年6月、吉野で兵を挙げて大友皇子(おおとものおうじ)住んでいる都、近江(おうみ)大津京(おおつきょう)を攻め落とし、 大友皇子(おとものおうじ)焼身自殺したのです。 この戦いを{壬申の乱・じんしんのらん}といいます、 そうして、大海人皇子(おあまのおうじ)は倭(やまと)飛鳥(あすか)の宮で即位(そくい)して第40代 天武(てんむ)天皇なのです。 |
スレッド表示 | 新しいものから | 前のトピック | 次のトピック | |
投稿するにはまずユーザ登録を | |