メイン 門真市 古事記(こじき)の編纂(へんさん)を命じた元明(げんめい)天皇 | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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rsbru | 投稿日時: 2008-3-30 21:09 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
古事記(こじき)の編纂(へんさん)を命じた元明(げんめい)天皇 第43代・女帝4番目の元明(げんめい)天皇
幼名・阿閇皇女(あべのみこ) 父は 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)後の天智(てんち)天 皇 母は 蘇我入鹿(そがのいるか)の従兄弟で、 蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(いらつめ) 病死の夫は 中大兄皇子の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)後 の天武(てんむ)天皇 と中大兄皇子の娘で(姪)の 鸕野讃良皇(うののさららのみこ)後の持統(じと う)天皇との間に生まれた、草壁皇子(くさかべのお じ) 阿閇皇女(あべのみこ)は第42代文武(もんむ)天皇が亡くなった時に首親王(おびとのしんのう)はまだ幼かったので、 義母の持統(じとう)天皇の命で即位したのです。 天皇は義父の天武(てんむ)天皇の念願であった歴史書、 歴史書は、620年に聖徳太子(しょうとくたいし)が、 帝紀(ていき){天皇家の歴史}また、旧紀(くき){天皇家の伝説}を編纂(へんさん)していたのですが。 645年6月12日、飛鳥板蘆宮(あすかいたぶくのみや)で中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)に蘇我入鹿(そがのいるか)が殺された時に。 父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は蘇我一族の最後と悟り、 我が屋敷に火を放ち自害しあのですが、 その際、燃え盛る炎とともに、 聖徳太子が編纂した帝紀も旧辞も炎に包まれしまったのです。 その為に、天武天皇は帝紀と旧辞を作る事を命じたのですが、 その願いが叶わないまま亡くなったのです。 元明(げんめい)天皇はその願いを叶えようと、 太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼(ひえたのあれい)に 帝紀と旧辞を編纂するよう命じたのです。 そうして、太安万侶と稗田阿礼は日本文字で古事記を、 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと) そうして、天照大神(あまてらすおおみかみ)の書き込みが始まったのです。 少し遅れて、天武天皇の子供、舎人親王(ねとりしんのう)が仲間と一緒に中国文字(漢文)で日本書紀(にほんしょき)を作り始めたのです。 そうして、古事記も日本書紀も、 天上(てんじょう)の世界である高天原(たかまがはら)で一番尊い日の神、太陽の神ある天照大神。 天照大神の親神、伊邪那岐命、伊邪那美命の書き出しは同じです、 古事記は、和銅(わどう)5年(712年)三巻完成したのです。 日本書紀は養老(ようろう)4年(720年)三十巻完成したのです。 |
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