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rsbru | 投稿日時: 2008-4-27 16:19 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
聖武(しょうむ)天皇と奈良の大仏さん 第45代 聖武(しょうむ)天皇
幼名・首皇子(おびとのおうじ) 大宝(たいほう)1年(701年)飛鳥藤原京宮殿で誕生 天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年(756年)56歳で没 佐保山南陵(さほやまみなみのみささぎ) 奈良市法蓮町 父は 文武(もんむ)天皇 母は 中臣鎌足(なかとみのかまたり)の孫で、藤原不比等(ふひ と)の長女で、宮子娘(みやこのいらつめ) 皇后 藤原不比等の末娘の藤原安宿媛(ふじわらのあすかべのひ め)で光明皇后(こうみょうこうごう) 首皇子(おびとのおうじ)の母、宮子は病弱であったので祖父の藤和不比等の屋敷で育てられていたのですが、 首皇子7歳の時に父が亡くなったのです。 そうして、皇子あ(おうじ)まだ幼なかったので祖母が即位して元明(げんめい)天皇となったのです、 皇子が10歳の時に都を飛鳥(あすか)の藤原京(ふじわらきょう)から奈良の平城京(へいじょうきょう)に移したのですが。 平城京の都を創るために多くの人々が重い税と厳しい労働をさせられて飢えや病で貧しい人々が多く死んだのです。 714年、首皇子(おびとのおうじ)は皇太子となり、 716年、不比等(ふひと)末娘の安宿媛(あすかべのひめ)と結婚したのです。 724年、即位して聖武(しょうむ)天皇になったのですが、 まだ、混乱の時世で天皇は政治を掌る自信がないので、 天武(てんむ)天皇の皇子で、 日本書紀を編纂(へんさん)した舎人親王(ねとりしんのう)と。 天武(てんむ)天皇の孫の左大臣(さだいじん)ある長屋王(ながやおう)に政治を任されたのですが、 長屋王は光明皇后(こうみょうこうごう)の四人の兄たち(藤原四兄弟)とは折り合いが悪く常に対立状態でした。 728年、聖武(しょうむ)天皇に第一皇子の基皇子(もといおうじ)が誕生したのですが病で亡くなった際に。 藤原四兄弟は天皇に、 長屋王(ながやおう)が基皇子(もといおうじ)を祈祷師(きとうし)に頼み呪(のろ)い殺し謀反(むほん)を企てていると報告したのです。 怒った天皇は藤原四兄弟に長屋王(ながやおう)を捕らえさせて、 長屋王を自害させたのです。 長屋王の屋敷では、妃(きさき)の吉備内親王(きびないしんのう)と四人の皇子たちも同じ頃、 屋敷に火を放ち自害したのです。 737年、九州で発生した天然痘(てんねんとう)は奈良の都にも流行して多く死者が出たのです。 そうして天然痘のために藤原四兄弟も死んだのです、 その頃九州で、不比等(ふひと)の甥の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が反乱(はんらん)をおこしたのですが、 捕らわれ死罪になったのです。 この出来事は長屋王の祟(たた)りだと恐れられ。 天皇は農民に尊敬されている行基和尚(ぎょうきおしょう)に 民を救うために都に大仏を造るよう依頼したのです。 最初は柴香楽(しがらき)で大仏造りをしたのですが失敗して、 745年に改めて奈良の都で工事が再開されたのです。 行基(ぎょうき)全国から金、銀、銅、錫、を奈良の都に運ばせて大仏造りがおこなはれたのですが。 行基(ぎょうき)は大仏の姿を見ること無く749年亡くなったのです、 天皇な皇位(こうい)を娘に譲り上皇(じょうこう)となり、 3年後、752年4月9日に大仏が完成したのです。 その2年後、 上皇(じょうこう)は光明皇后と第46代天皇に即位した、 娘の孝謙(こうけん)天皇の三人に、 唐(とう)から来た鑑真和上(がんじんわじょう)が大仏殿の前で 受戒したのです。 |
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