メイン 門真市 孝謙(こうけん)天皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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rsbru | 投稿日時: 2008-5-29 14:13 |
常連 登録日: 2004-10-29 居住地: 投稿: 96 |
孝謙(こうけん)天皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう) 第46代 孝謙(こうけん)天皇{女性6代目の天皇}
第48代 称徳(しょうとく)天皇{孝謙天皇は再び即位する} 幼名・阿倍内親王(あべないしんのおう) 養老(ようろう)2年(718年)平城京で誕生 神護景雲(じんごけいうん)4年8月4日(777年)53歳で没 父は 聖武(しょうむ)天皇 母は 中臣鎌足(なかとみのかまたり)の孫娘で父は藤原不比等の 娘で藤原光明子(ふじわらのこうみょうし) 聖武天皇と光明皇后の間には男子が育たず、 娘の阿倍内親王(あべないしんのおう)を史上初めての女性皇太子となったのですが。 将来、即位することが決まっていたので結婚するこは出来なかったのです。 天平勝宝元年(てんぴょうしょうほうがんねん)749年に 母、光明皇后(こうみょうこうごう)の甥の藤原仲麻呂を後見人にして。 阿倍内親王(あべないしんのおう)即位させたのですが、 後見人になった仲麻呂(なかまろ)は急速に勢力を拡大して、 皇位(こうい)を狙っていた、 天智天皇や天武天皇の孫たちは仲麻呂と戦ったが何れも敗れてしまったのです。 10年間、天皇の座にいた孝謙天皇は758年、仲麻呂は大炊王(おおいおう)を皇太子にしてすぐに、 孝謙上皇して、大炊王を淳仁(じゅんにん)天皇として即位させたのです。 760年、母の光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が病で亡くなると孝謙上皇は病に伏せるようになったのです。 この頃、河内国(かわちのくに)祈祷師(きとうし)弓削道鏡(ゆげのどうきょう)住んでいたのです。 弓削道鏡は始祖は、 578年、聖徳太子(しょうとくたいし)と蘇我馬子(そがのうまこ)の連合軍に敗れた物部一族の者とも。 天智(たんち)天皇の第7皇子の施基皇子(きしおうじ)の子供とも云われています。 道鏡(どうきょう)は、 河内国若江群(かわちのくにわかえぐん){大阪府八尾市弓削}で生まれ。 高僧(こうそう)義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)や梵語(ぼんご)を学びまた、 大和国{奈良県南部}葛城山中に篭り如意輪法(にょいりんぽう)の修行を積んだと教えられました。 この頃、 平城の都では孝謙上皇の病を治す為に多くの占い師や祈祷師を探し求めていたそうですが。 上皇の病を誰も治すことが出来なかったが、 道鏡(どうきょう)宿曜秘法(すいようひほう)を用い上皇の病を完全に回復させたのです。 それから上皇(じょうこう)は道鏡(どうきょう)寵愛(ちょうあい)するようになったのです。 今まで、孝謙上皇は全て藤原仲麻呂に頼っていたのですが、 上皇は道鏡に全て頼るようになったので、 仲麻呂は不満を持ち淳仁天皇と連合で道鏡を殺そうとしたのですが失敗し。 仲麻呂は殺され、淳仁天皇は廃帝(はいてい)になり淡路島に流罪され、 765年、淡路島から脱出しようとしたが捕らわれ33歳で亡くなったのです。 孝謙上皇は再び称徳(しょうとく)天皇として即位したのです、 そうして、 道鏡(どうきょう)を太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ){法王の位}にしたのです。 その頃、九州の宇佐八幡宮では道鏡を天皇にしなさいとのお告げがあったとの噂が広まり、 和気清麻呂(わけのきよまろ)訊ねに行ったら嘘であったことが分かったのです。 このことは、称徳天皇は愛する道鏡を即位させて天皇にしようしのですが嘘がばれて称徳天皇は尼になったのですが。 天皇が亡くなると道鏡は、 下野国(しもつけにくに){栃木県}薬師寺に左遷され2年後に死んだのです。 |
kawati | 投稿日時: 2010-11-22 10:21 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
Re: 孝謙(こうけん)天皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう) 孝謙(こうけん)天皇〜後の第48代 称徳(しょうとく)天皇を
TVでドラマ作成される日を楽しみにしています。 |
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