メイン 門真市 平安時代の後期 平清盛(たいらのきよもり) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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kawati | 投稿日時: 2011-1-4 13:58 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
平安時代の後期 平清盛(たいらのきよもり) 平清盛(たいらのきよもり)
元永(がんえい)元年(118年)生まれ 治承(じしょう)5年2月4日(1181年3月20日 熱病で没 父は 平忠盛(たいらのただもり) 母は 祇園女御(ぎおんのにょうご) 清盛(きよもり)が幼い頃、1118年、父の忠盛(ただもり)は海賊平定などの功績(こうせき)により鳥羽法皇(とばほうおう)にとりたてられ昇殿(しょうでん)を許されたのです。 1143年、比叡山(ひえいざん)の僧兵(そうへい)が京の都で訴えをおこし暴れていたのですが、 清盛(きよもり)が僧兵軍(そうへいぐん)を都から追い払ったのです。 1153年、父忠盛(ただもり)が死んで清盛(きよもり)は平氏武士団(へいしぶしだん)の棟梁(とうりょう)になったのです。 1155年、次の天皇をきめる問題で、 父の鳥羽法皇(とばほうおう)と兄の崇徳上皇(すとくじょうこう)の対立が起きたのです。 鳥羽法王(とばほうおう)は崇徳上皇(すとくじょうこう)の弟である、雅人親王(まさひとしんのうを推し。 崇徳上皇(すとくじょうこう)は我が子の重仁親王(しげひとしんのう)を推していたのですが、 けっきょく鳥羽皇王(とばほうおう)の次男で崇徳上皇(すとくじょうこう)の弟、 雅人親王(まさひとしんのう)が即位(そくい)した後白河天皇(ごしらかわてんのう)です。 この時の対立が尾をひき、 藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)や平氏(へいし)そうして源氏(げんじ)も二派(は)に分れたのです。 後白河天皇(ごしらかわてんのう)側に、 藤原忠道(ふわらのただみち)源義朝(みなもとのよいとも)平清盛(たいらのきよもり)。 天皇の兄、崇徳上皇(すとくじょうこう)側に、 藤原頼長(ふじわらのよりなが)忠道の弟、 源為義(みなもとのためよし)義朝の父、 平忠正(たいらのただまさ)清盛のおじ、 鳥羽法皇(とばほうおう)が亡くなると対立が激しくなりました。 鳥羽法皇(とばほうおう)に認めらていた高僧(こうそう)藤原信西(ふじわらのしんぜい)の命を受け、 崇徳上皇(すとくじょうこう)のいる白河殿(しらかわどの)へ夜討(ようち)をしたのです。 その結果、大活躍をした源義朝(みなもとのよしとも)よりも平清盛(たいらのきよもり)の方が恩賞(おんしょう)多かったのです。 保元の乱(ほうげんのらん) 腹の虫が治まらない義朝(よしとも)は、 1159年、平清盛(たいらのきよもり)は熊野詣(くまのもうで)に行った留守に、 藤原信頼(のぶより)と義朝(よしとも)は兵をあげ御所に火を放ち、 藤原信西(しんぜい)を殺し、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)を拉致(らち)して宇治(うじ)逃げたのですが。 この事件をしった清盛(きよもり)は直ぐに京の六波羅邸(ろくはらてい)に戻り、上皇(じょうこう)を助け、 清盛の兵に、源義朝(みなもとのよしとも)と長男の義平(よしひら)は捕まり殺されたのです。 三男の頼朝(よりとも)は伊豆に流され、九男の牛和丸(うしわかまる)は鞍馬寺(くらまでら)に預けられたのです。 1167年、清盛(きよもり)最高職の太政大臣になったのですが、 1180年、源頼朝(みなもとのよりとも)に挙兵(きょへい)した源氏(げんじ)軍に攻め込まれながら熱病の為亡くなり、 4年後に平氏(へいし)は壇ノ浦(だんのうら)滅びました。 |
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