メイン 門真市 八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ) | 投稿するにはまずユーザ登録を |
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kawati | 投稿日時: 2010-12-26 23:42 |
準常連 登録日: 2008-10-26 居住地: 投稿: 12 |
八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ) 源義家(みなもとのよしいえ)
始祖は第56代 清和(せいわ)天皇 父は、源頼家(みなもとのよりいえ) 母は、平直方(たいらのなおかた)の娘 長歴(ちょうれき)3年 1039年 生まれ 幼名 源太(げんた)不動丸(ふどうまる) 不動丸(ふどうまる)は7歳で山城の国、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で元服(げんぷく)して八幡太郎(はちまんたろう)と改名(かいめい)したのです。 1051年、奥州(おうしゅう)の安倍頼時(あべよりとき)貞任(さだとう)の親子が朝廷にそむいたので、 父、瀬義(よりよし)とともに遠征(えんせい)して、 清原一族を助け、安倍氏(あべし)を滅(ほろ)ぼすのに12年もかかったのです。この戦いを前九年の役(ぜんくねんのえき)といいます。 父、瀬義(よりよし)が亡くなると源氏(げんじ)の棟梁(とうりょう)となり、 1083年、陸奥守(むつのかみ)となって多賀城(たがじょう)入ったのですがその年に、 清原一族内で争いがおきたので清原清衡(きよひら)を降伏(こうふく)させたのですが、 清原家衡(いえひら)は、金沢柵(かなざわのさく)に、たてこもり反抗したのです。 そうして、4年かかって家衡(いえひら)を殺したのです、 これが、後三年の役(ごさんねんのえき)といいます。 義家(よしいえ)は白河上皇(しらかわじょうこう)に戦ってくれた兵士たちに支払うために恩賞(おんしょう)を要求(ようきゅう)したのですが、 清原家衡(いえひら)との争いは義家(よしいえ)が攻(せ)めたと云って白河上皇(じょうこう)恩賞を出さなかったので、 義家(よしいえ)自(みずか)ら兵士たちに恩賞をわたしたので。 怒(おこ)った上皇(じょうこう)は、義家(よしいえ)にたいする荘園(しょうえん)の寄進(きしん)禁(きん)じたのです、 ところがこの頃、 武装(ぶそう)した僧兵(そうへい)が強訴(ごうそ){集団で訴える}を繰り返していたので、 1098年、義家(よしいえ)は昇殿(しょうでん)をゆるされ僧兵(そうへい)を取り締まったのです。 義家(よしいえ)は東国武士団(とうごくぶしだん)とむすびつきを強め源氏(げんじ)発展(はってん)の基礎(きそ)をつくりました。 嘉承(かしょう)元年 1106年8月4日 68歳で没、 墓所 大阪府羽曳野市 通法寺 |
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